だるまさんがころんだ
正しい事を言っているんだから・・・、ばかりではいけない

子どもの世界ならば正しい事を教えなければいけないけれど
いろいろな機会によってそれは異なる
こんなことが半世紀を経て解るようでは、周りがいかに「まあまあ」と大きな懐に入れていてくれたことか

見て見ぬ振りも大切なこと
「あーそうなんだ」という言葉を、その事をすでに知っていても使えることが素晴らしい
ともすると、知っていたよ、解っていたよって言いたいものなのだけれど

子育てをした人のすごいところはここだ
子ども相手に正論ばかり言っても子どもが言うことを聞かないことを体感している

どうかしないかいつも気にして見守っているから
あっ転んだ、と見ていても
子どもがちゃんと自分で立って、泣かなかったよって言って来たところで
「そうなんだ、偉かったねぇ」って初めて知った振りをして子どもを導く

お年寄りに対してもそう
転んじゃったと聞けば心配して、大丈夫だったかという気持ちが強くなりすぎて
だから気をつけてと言っているでしょう、と相手のことより
自分が言っていたのに、が主になっていたりして

好きな人へも同じこと、もっと気になり心配するから
大丈夫だった?なんとも無い?と優しく言えばいい事を

「だから言ったのに」と自分ではどうしようも無いことだから余計に力が入ってしまって
逆に喧嘩になったりしてしまう

悪いことになろうと思う人はいない、みんな良い事を望みそうなるようにしているわけで
ここで転ぼうと思って歩く人はいないし、ここで何かに当たろうなどと思ってもいないのだから

転んだほうも心配かけまいと思って言わないならば
おでこに大きなコブを作って擦り傷をこさえいても、言い出だすまでは気づかぬ素振り
「だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ」とばかり数でも数えて気を落ち着けて

お互いの向いている方向が同じでも言葉の一つで違ってしまうことを
やっと気づいた今日この頃
まあ独りよがりのわがままを見守っていてくれたと解るにはあまりに長い時の流れ
NHKドラマ『江』の時代ならば人生はもう終わっている頃か

もしかしたら子どもの「どうしてどうして」攻撃は大人の忍耐力を付けるための
人間DNA的子ども知恵かなどと思いながら
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