お年寄り話
先日この辺りであった地震の事をブログにも書きましたが(いよいよ来たか)
そんなお年寄りの話をもう少し ブログに書いた年寄りの話に自分がうけて

もうずいぶん昔の話ですが、ご飯茶碗を持ってご飯をよそおうかと思ったところ
誰が見ても解るようにご飯茶碗が汚れている
「この茶碗洗ってあるの?」 「あるよ」 「ここが汚れているよ」 「どれどれ?
 年寄りがぶしょったいと言われる訳だよね、これが見えないんだもんね」と
(ぶしょったい とは方言で 汚らしい、だらしない の意)

そうなんです、お年寄りは汚いのが好きなのではなく汚れているのが見えないのです
好きでないのは当たり前か

またこれも前の話
顔を見ながら、ああだこうだと話をすると
何も言わず首を縦に振りながら話を聞いている
続けて話をひとしきりし終えると
横を向き隣の人に「何だって?」と聞いている
ええっ?あれだけ話したのに何も聞こえていないのぉ?
フンフンって頷いていたじゃない と思うのはこちらの勝手で
話す方に調子を付けて首を振っていただけ?なの?
確かに「聞こえている?」とは聞かなかったし「解った?」とも言っていないけれど
あれだけ必死に話したのに・・・・と
こんな事ありませんか? こんな事が良くある訳で

先日の地震の話も
「地震だよ」 「そう地震?立っていると解らないね、
 自分自身が普段からフラフラふらついているから自分なのか地震なのか
 座っていると蛍光灯が揺れて解るのだけれど」 と言って
お茶を入れるとお湯を沸かしているガスレンジもそのままに
「一人の時は火は消してね」 「はいはい、解ったらね」 などと

年を取り、目が悪くなり、耳が遠くなり、鼻が利かなくなって、鈍感になる
だけれど本人はいたって普通に暮らしている
「年を取るといろいろ出来なくなってねぇ」などと言いながら

人間は幼い頃、物事が解らず叱られる
人間は年を取ると、物事が解っていても確認できず叱られる
どちらも本人の認識が無いと言う点で同じだけれど

バリバリの働き盛りを通ってきたお年寄りの認識の無さは幼子のそれとはちょっと違う
そんなことを解るには、自分もお年にならないと、なんて

昔家にはおじいちゃんおばあちゃんが居て、小さい頃から年寄りに接していた
そんな家の子ども達はお年寄りに優しかった そう思えた
自分と親だけの家は、親はいつまでも40〜50のイメージが抜けず
できるだろうと言う期待が、尊敬からくる苛立ちが、なまじ喧嘩の元になる、などと
さて、自分のお年寄り話は?と想像をめぐらして

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