おせっかい焼き
台風が去りいろいろな所にその爪跡は残っている
ふと気づくと建物の裏手と思われる所の雨どいの排水管が外れて隣の建物に寄り掛かっていた
「あの家の人も気づいているだろう」そう思いながらも進行方向とは逆のその建物に向った
人の顔は見えずインターフォン越しの会話をする
「おせっかいだが裏の雨どいが外れている」と
すると少々聞き取りにくかったが、業者に修理を頼んであると言うことだった
それならば良かった

しかしふと考えてみるとこのようなおせっかいな人はいないのではないか、と一人笑えた

そして、もう解っています、だけではなくて「ありがとうございます、ご親切に」と言えなかっただろうか、と
自分の行為を褒めろと言っているのではなく

昔めったに乗らないバスや電車でお年寄りに席を譲るという事に、どれだけの勇気と恥ずかしさが心の中で葛藤したろう
先生や大人は「お年寄りや弱い人に席を譲りましょう」と簡単に言った
その返事が無碍も無く、「いやけっこう」 や 「すぐ降りるから」では
若者は、もうこんりんざい席なんか譲ると言わない、そう思うだろう

おせっかいとちょっと話がずれてしまったか

幼い頃より褒められる事は嬉しくて、「ありがとう」はそれと同じ、そうやって社会の仲間入りをしてきた
世間の人に「褒めてくれ、偉いだろう」と言うわけではなく

今でもイメージは大阪のオバちゃん、大いなるおせっかい焼き
けれどあの大阪を活気付けているのは紛れも無くあの人達
言い方を変えればその『おかん』と育てられた人達で大阪はなっている、 また話がずれたか

そしてむしろ受け止める側も「その気持ち」を伸ばさなければ
たとえ一駅であっても「ありがとう、それでは」そう言って座ってくれれば、次の駅で降りて行く姿を見
自分の気持ちを汲んで座らなくても良い距離をわざわざ座ってくれたんだ、とまたその心使いを教えられる
そうして育てば
きっと世間の会話は「どうぞ」「ありがとう」と「どうぞ」「いや結構」が 簡単 に交わさせるようになるのだろうか

そして思う
もし、小学生が席を譲ってくれたら「そんな年じゃないんだけど・・・」 と心で思いながらも
あなたのその気持ちと勇気に 「ありがとう」そう言って譲られる大人になりたいな、と
(幸いまだそのような経験はしないですみますが。近頃「お父さんは・・・」と若者から言われるようになってしまった・・・・)

『おせっかい焼きとは、むしろ無い方がよい世話を焼く様』ということ
無くてよい世話を焼き、そのおせっかいを受け入れることも実は大切なのではないかと
そんなおせっかいだらけだった社会が結婚を導き、回りも身内的な社会を作ってきた
そして今欧米化した考え方は『隣は何をする人ぞ』と高度?になった分 個人主義や孤独死、少子化などを呼んだ
本当は、今の世の中に必要なのではないかと思う、親切と紙一重のおせっかいが
要らぬお世話は受ける方で排除すれば良い、しかしお世話されてみなければその良し悪しさえも解らないのだから
などと要らぬ世話を焼きながら
 
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