信じるということ
先日の温かかった日、幼稚園?か保育園?の子供たちが手を引かれてお散歩をしている姿を見かけました
友達同士笑いながら連れられて歩いていました
そんな笑顔から、どこへ行くのかは全く知らないしどこへ行くのでも平気、という安心感が感じ取れました
昔はみんなあんなだったな
もちろんあの子達は知っている先生の引率の下、連なっているのだけれど

人を見たら泥棒と思いなさい、という言葉は昔からあったけれど
いつの頃からだろう、本当に疑らなければいけなくなったのは
子供ばかりの話ではなく年寄りが騙される、いや年寄りを騙そうという魂胆
それも人の優しさに付け入る姑息な手口で

詐欺師も昔からいた、今に始まったことではないと言えばその通りなのだが

昔ヨーロッパへ旅行に行った時、添乗員さんから聞かされた話がある
「観光地で写真を撮ろうとしていると撮りましょうかと親切に声を掛けてくれる、お願いしますとカメラを渡し
数歩歩いて笑顔で振り向くと、カメラと共にその人物は消えていた。そんな事が多いですから気をつけてください」と
日本のカメラは人気ですし、日本人は騙されやすいので注意してくださいというものだった
日本では考えられない簡単な手口

この国でも、あの無邪気な子供たちの様に安心できるのは、身内の中だけになってしまったのだろうか

昔も悪人はいたけれど、普通の人が突然人を殺してみたりは無かったように思う
アメリカなどでよくある無差別乱射事件などは海の向こうの話だと思っていたが
銃社会であったなら同じことが起こっているのだろう

電車で隣り合わせた人を、この人は『まとも』?などと常に考えなければいけないのだろうか
さすがにそこまでは考えなくともと思うが、それも解らなくなってきた
しかし、「もしも〜し」と掛かってきた電話は本当に本人?とお年寄りは考えなければいけない

人に親切にしましょう、優しくしましょう、と教えている子供に、どこまで信用すればいいのでしょうか?と質問されたら
いったいどう答えればいいのだろう

子供のいじめが巧妙になって、そして社会にもいじめがある時代
犯罪も巧妙になって
騙すより騙された方が、というのはドラマの中のセリフであって、騙される方が良い は答えではない
盗人にも三分の理、などと言っていられないほど本当の理由より、こじつけられる理由の方が多くなったのだろうか

監視カメラが街中に設置されれば、監視社会だと批判が出るが、そのカメラで犯人が捕らえられるのもまた事実

大切な人を信じ、その周りの人を信じ、そのまた周りの人を信じ、そのまたまた・・・・・、と大きく繋がっていければ
そんなふうに思います
そして、人には親切にしましょう、優しくしましょう、を続けていかなくては
それほどあの子達の疑いの無い笑顔は素敵なのだから
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